2023/08/08 10:00
夏祭りのざわめきと熱が残る地元の寺に、
とてもきれいな満月が隠れていた。
きれいが過ぎてしばらく見とれていた。
いつからか、と言っても記憶にないほど子供の頃らしく…、
月がとても好きだった。
海辺の町に暮らした時には特に意識が高まっていった。
月齢はもとより、潮の満ち引き、風、もちろん波も。
いつの間にか季節の移ろいを肌で感じるようになった。
強い風や雨、大地の揺らぎ、自然に脅威を覚えて、
なおのこと、愛でることができるようになった。
やっぱりその中心にあるのは月齢。
今年は満月に二回出会える八月になった。
とても貴重でうれしく感じる今年の八月、
二回目の満月の頃には、すっかり夏が終わって秋になり、
私のクローゼットからは麻の衣類が消え去った頃には、
風が涼やかに感じられるようになっていると思う。
広場からはラジオ体操が消えて、町から夏休みの子供が消えて、
蝉の種類が変わって、鳴き声すら消えていく。
改めて、八月には日本の美しさが感じられることが多いと思う。
国全体が忘れることのないように繰り返し情報を流す、
八十年近く前の八月のことについてはさておき、
先祖に想いを馳せる八月。
旧暦との違いはあるけれど、
とても大切な日本の八月は、
日本以外の国の人には
どのように見えているんだろう、とも考える。
私にとって大切な日本の八月は盆踊り。
昨今はイベント化、商業化したものが多く辟易するものの、
とても大切な年中行事のひとつだと思っている。
そもそも平安時代中期からはじまった仏教行事「念仏踊り」。
これが先祖供養の「盂蘭盆会」と結びついたものが「盆踊り」。
必ず中心にあるやぐらは、先祖をお迎えする時のあかり。
先祖が迷うことなく帰ってこられるようにあかりを灯し、
人々が集い、お囃子と踊りでもてなす。
なんて美しい行事だろうと毎年思う。
元来、日本のあかりは蝋燭、それを風雨から守る提灯。
それが風に揺れ、あかりが揺らぐ。
一般家庭や町が今ほど明るくない時代の町の中心で、
揺らめくあかり、導くやぐら、それに集い踊る人、人、人。
想像するだけで身震いするほどの美しさを感じられる。
古くから乏しいあかりの陰影で表現されてきた日本の様式美。
今となっては、資源を考えたものに変わり、その意味を変えたものの、
炎が照らすあかりは今でも人の拠り所なんじゃないかと思うし、
そうであって欲しいと改めて、切に思う。
そろそろ、谷崎潤一郎「陰翳礼讃」を読み直そうと思いながらも、
頭の中には井上陽水「少年時代」が流れていたり…。
想いが巡り過ぎる今日この頃、
とにもかくにも、夏の終わりと秋の始まりを楽しみにしている。
ひとつひとつ時を刻んで季節が移ろい、人が流れて行く。
いやいや、何だか美しいですね、日本の八月は。
これを忘れたくないですね、ずっとずっと、この先も。
知らない人や感じない人にもわかって欲しいですね。
日本以外の様々な国な人にも伝えたいですね。
いろいろ沸き上がってきますね、いや、ホントに。
もう少しだけ、がんばります。
こんな独り言のような散文を表に出せるだけでありがたく、
関わる人には特に感謝しています、心から。
この散文が更新されるのは八月八日火曜日。
二十四節気では立秋、七十二候では涼風至。
なんて美しい言葉で表された暦でしょうね。
いつもより騒然とした最寄り駅、
生ぬるい夜の風に押し出された先で目にした広告、
「八月八日は炒飯の日」
炒飯でなくて焼飯でしょ、などとも…。
令和五年 人生初のオンライン会議をした記念すべき日に
栗岩稔