2023/02/24 23:03

 

-己れの経験で掴む「生きたことば」が、自分という人間存在に触れるとき-

 

F:原住民の話の繋がりで、少し人間から離れて、歳を重ねるということを考えてみたら面白いかなと思う。下川さんとSさんに馴染みのある文学、栗岩さんで言えば音楽、Eさんで言えば精密機器などありますが、どうして、僕らは昔から遺っているものに魅力を感じたりするのでしょうか? これだけ時代が進んできて、新しいものが出てきている中で、なぜ古いものに惹かれたりするのか。

 

栗:150年前から、今も変わらずコレクターがいる物がある。実は、時計と拳銃。150年前に、機能的にも素材的にも完成された美があって、システムが変わっていないのは時計と拳銃だけ。

 

Y:日本刀もそうですよね。前に栗岩さんから、昔の橋はすごく手間暇かかっていて、今ではこんな橋は作れないというような話を少し聞いたことがある。そこに対する思いというか、ロマンみたいなものも、魅力のひとつかもしれない。僕がつくるカクテルは、瞬間芸。そこにどれだけ自分の思いが入っているのか、だけしか考えていない。思いが入っていないと、はっきり言えば美味しくないし、言葉にするのは難しいですが、何か感じるものがないんです。

 

栗:自分もそう。「グラス一杯の時間を売りたい」。時間に対して対価をもらいたいんですよ。それが酒なのか、珈琲なのか、お茶なのか、なんでもいい。

 

下:僕もドストエフスキーなど、100年以上遺っている本ばかり読みます。彼らは、どの時代においても、どの時間においても、読み手がそこに命を吹き込める言葉を使っている。言葉が、時間の中を動いて生きている。書き手の視点でいうと、例えば僕が「youtube」という言葉を使ったとすると、それは、現代の条件つきの社会には通用するけれども、人間という普遍的なところに通用するかというとそうではない。それは生きた言葉ではなく、ただ死んだ文字でしかない。先日、「声の文化と文字の文化」という本を読みました。文字がなかった時代には、人間の会話はすべて声で行われていたんですね。だから、言葉を使うということが、その場にいる人間にとって、時間の中を動くひとつの出来事だった。けれども、文字が出てきたことにより、言葉を時間の中を動く生きたものから、空間に閉じ込める死んだ言葉にしてしまう現象が起きた。僕たちは、生まれた時から、文字になった言葉を「ことば」として、当たり前のように生活しているけれども、ことばの始まりである、声の文化を考えなければ、本当のことばにはたどり着けないだろうと思う。ポール・オースターの「ガラスの街」にも、同じような投げかけがありましたけれども、いつまでも、言葉の主人は言葉にあり、僕らは言葉の主人にはなれない。だから、自分の経験に基づいた、自分のことば、生きたことばを使って会話をしたいと強く思いますね。

 

栗:「バベル」という映画があるんだけれども、今の話題にピッタリだよ。要は、言葉というものがコミュニケーションではない、というような話。

 

Y:僕は極論、ここでの会話もただの言葉遊びだと思っている。僕が今使っている言葉にも、みなさんそれぞれの受け取り方があって、自分の言葉に対するみなさんの受け取り方は僕にはわからない。それも含めて、言葉の、見えない部分での楽しみ、というか。だからこそ、シチュエーションに合わせて、綺麗な言葉を使うのか、崩した言葉を使うのか、それを使い分けられることが、ひとつのインテリジェンス、つまり言葉を使う、ということなのかもしれない。僕と栗岩さんのバーテンダーの仕事は、言葉を使いわけるということに関して最たる仕事かなと思います。栗岩さんを見ていると、少しだけお客さんに合わせるけれども、栗岩スタイルは大きく外さない、ということを感じる。けれども僕の場合、お客さんに合わせてけっこう崩すんです。その代わり、とても疲れますけどね。

 

栗:Yさんはお店のカウンターに6人いたら、6人ともに対して使う言葉が違うと思うよ。自分も同じように、お客さんに合わせて疲れるという経験を痛いほど散々して、自分軸との振り幅が少ない今のスタイルになった。

 

Y:僕は、自分軸はあるけれども、お客さんにその軸を寄せていく。けれども、僕らは自分軸から外れる行動をすると疲れるんだと思う。

 

栗:軸がない人に軸はわからないよね。軸がない人から、軸という概念は出てこない。だから、Yさんに限らず多くの人がそうだと思うけれど、軸が定まるというのも、経験を重ねなければ難しいことだとは思う。でも、自分もそうだったから言えるけれど、自分の力で迷えばいいんじゃない? 本を読めば、人の話を聞けば知識は入ると思うよ。それがアウトプットできるかどうかは、下川さんの言ったように、生きた言葉になるかどうかは、それぞれの経験の積み重ね次第だよ。自分も、今となっては誰も信じてはくれないけれど、もともとは人前で話すのが苦手な人だったからね。対人恐怖症だった。今になって、自分の言葉で語れる、文章にできるようになったのは、“自分の経験”を重ねてきたからじゃないのかな。だから、すごく楽しいんだよね。今の自分は、“重ねてきた結果”だよ。

 

 

「栗岩稔と人間学」 information

<日程&テーマ>

開催時間:1月〜6月最終土曜日 各回とも13:0015:00

参加費:¥3,000(美味しい珈琲付き)

場所:GOTTA STUDIO KUDANSHITA

東京都千代田区九段南2-2-8松岡九段ビル201

 

第一回 128日(土)

歳を重ねるって面白いですか?

 

第二回 225日(土)

人生に過去問は必要ですか?

 

第三回 325日(土) 

働かなきゃだめですか?

 

第四回 429日(土) 

結婚って必要ですか?

 

第五回 527日(土) 

認められる大人ってなんですか?

 

第六回 624日(土) 

幸せってなんですか?

 

※老若男女問わず、人数に上限は定めませんが、参加申し込みのお問い合わせは

mineosha@icloud.com(竹田)までお願いします。